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旧東方村中村家住宅に関する史料(修斎編)

2023年6月23日更新

旧東方村中村家住宅に関する史料(修斎編)

嘉永7年(1854年)に中村義徳(重貞、培根)(1818年-1876年)が孟子などの言葉を引用しながら、家族の在り方などを書いたものです。この頃(36歳)義徳は名主を勤めながら塾(寺子屋)で教授しています。
まさに働き盛りで村政の要でもあった義徳ですが、この4年前に書かれた別の史料には隠居した養父・興治の生活保障や義徳の幼い弟たちの養育費などを保証する文書が残されています。
男子の跡取りに恵まれなかった興治は養子の義徳に家督を譲って隠居しましたが、この頃から中村家の家計は出費が多くなって身代が傾いてきました。興治は1855年に亡くなりますが中村家の借財は続き、1859年には四条村の飯島家に3両の借金をしています。寺子屋も経営していたとはいえ、名主の中村家が3両ほどの金にも困っていた様子が覗えます。
「修斎編」はこのような状況下、興治が亡くなる前年に書かれたものです。義徳はどんな気持ちで家族の在り方を書き綴ったのでしょう。
幕末頃の中村家文書は大きな変動期の村落の状況をよく表しています。特に義徳に関する史料は地域の近代化の様子がわかるものです。

このころの中村家の当主(家系図)はこちら。(7ページをご覧ください。中村義徳(培根)の写真も掲載されています。)

この資料は文化財ボランティアが古文書の翻刻を行いました。
画像クリックでデジタルアーカイブの該当ページに移動します。古文書である修斎編の表紙

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